北条 得 宗家

Add: ucicozu28 - Date: 2020-12-16 13:54:34 - Views: 3327 - Clicks: 1771
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北条重時と相談して後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王の将軍就任を成功させた。 北条重時死後の後任として北条政村を連署に就任させたが、赤班病に罹り さらには赤痢にも感染して執権を北条長時に嫡子・北条時宗の眼代というか たちで譲って出家した。. 結論から申しますと、足利氏歴代当主の正室は全て北条氏です。そして、北条氏出身の母親ではない男子は当主になれなかったのです。ただし、足利家時と高氏(尊氏)だけが、側室上杉氏出身の母親です。これが、北条氏との関係に微妙な影を落とすのですが・・・。 足利義兼と北条時子の間に生まれた義氏(1189~1254)もまた、三代執権北条泰時の娘(生没年不詳:母は三浦義村の娘)を娶ります。さらに義氏の子泰氏(1216~1270)も、泰時の子時氏の娘(?~1246:母は未詳)を娶っています(時氏は早世したので執権には就いていません)。 このように、足利義兼・義氏・泰氏の足利氏三代と北条得宗家との婚姻関係は、両家を幕府内で特別な地位へと上昇させていきます。 頼朝死後、北条氏は源氏の名門足利氏を自己の陣営につなぎとめることで、幕府内部における北条氏の地位の確立につとめることができました。 足利氏にとっては、幕府内で影響力を増す北条氏とつながることで、源氏の嫡流という立場を足利氏が継承した(源実朝の死によって頼朝系の源氏は断絶したので)ことを人々に認めさせることができました。 足利氏と北条氏は、幕府内で勢力を拡大するために共に支え合う関係だったといえるかもしれません。 鎌倉時代の足利氏は、義氏のころが足利氏の最も栄えた時代とされ、北条氏との関係も極めて良好だったと考えられています。 義氏は北条氏に対して協力し続け、その権力の確立・維持に力を添えていきました。北条氏もまた、足利氏を源氏の嫡流として最も有力な御家人として厚遇していったのです。 ところが、義氏の嫡子泰氏が35歳で突然出家し、さらに義氏が没すると足利氏の勢いに陰りが生じてきます。北条の勢いがダントツになったと言い換えてもよいかもしれません。 それでも、頼氏以降の歴代当主の正妻は北条氏であることに変わりはありません。. 明盛: 業績: 1199年4月 1200年4月 1205年閏7月: 13人の合議制に参加。 従五位下遠江守に叙任。 北条 得 宗家 出家: 時 政 伊豆国田方郡北条庄に住んで北条氏を称する。元々伊豆国の在庁官人であ ったといわれている。.

一番引付頭人(19歳) 1315年(正和四年). 北条家本家(得宗家)の家人をさす。 また北条氏一族の被官も含め北条氏勢力総体をさす場合もある。 寺社勢力から非法をした御家人の引渡しを要求された六波羅探題が、かわりに自分の御内人を差し出したという事例にみられるように、御家人に対する. 北条泰時の弟重時に始まる北条氏門流を「極楽寺流」といいます。 さらに、極楽寺流の重時から長時(赤橋氏)・時茂(常葉氏)・義政(塩田氏)・業時(普恩寺氏)の庶家が生まれます。.

●現代の我々が、北条氏得宗家と足利氏嫡流の系図を【図A】のようにして並べると、足利氏の歴代当主が「得宗からの偏諱+通字の氏」の名乗りを原則としていたように見え、先行研究でもそれが慣例(伝統)であったと解釈されてきた。 ●しかし、実際には両家は烏帽子親子関係を結び合う対等な関係にあり、泰氏の子は得宗を烏帽子親としておらず、北条時頼が利氏(頼氏)に偏諱を与えて改名させ、続く時宗も家時(および宗家)の加冠・偏諱の授与に応じたことで、足利氏が得宗から一字を拝領する慣習が成立したのである。 ●時宗の子・貞時もこの慣例を遵守し、その偏諱の位置によって、比較的得宗家に近い貞氏を足利氏の嫡流、霜月騒動に連座した宗家の子・家貞を庶流として差別化するだけでなく、貞氏を「源氏嫡流」として公認することで源氏将軍を擁立する動きを抑えた。そのため、貞氏の長男は清和源氏の通字「義」の使用を許されて「高義」と命名されたが、ここからも「氏」の使用にこだわっていなかったことが窺える。 ●足利高義は父に先立って早世し、高義の子の成長を待たずして貞氏も亡くなったので、高氏(尊氏)が家督を継ぐこととなり、結果として「氏」の付く者(義氏―泰氏―頼氏―家時―貞氏―高氏)が歴代当主となる形となった。従って「得宗からの偏諱+通字の氏」の名乗りを特に伝統(原則)としていたわけでなかったことが分かる*43。 特に、家時についてはこの原則(名前の構成)の例外として「足利氏の政治的地位をいっそう低下させ、また北条氏との関係も円滑さを欠くようになった」と評価する見解もあった*44が、家時(の元服)に至るまでは、泰氏―頼氏のたかが2代続いたのみ*45で、しかも頼氏は改名によって得宗の偏諱を受けたのであり、貞氏―高氏がまだ生まれていないこの段階で「得宗の偏諱+氏」の名乗りを "伝統" として解釈すべきではない。むしろ頼氏が最初から得宗の偏諱を受けていない理由と、逆に家時が最初から北条氏の通字でもある「時」の使用を許された理由を考えることが重要なのではなかろうか。 本項では、足利氏嫡流の歴代当主1人1人を順に追っていき、その一字拝領を丹念に考察することによって、他の家柄とは異なった、得宗家と足利氏の継続的な烏帽子親子関係の成立過程を明らかにした。 他の家柄に着目してみても、武田氏は時政の代から、安達氏は義時の代から、佐々木氏. 北条宣時(大仏宣時)の子。大仏家の総領として、幕府の要職を歴任。元服時に得宗家当主の北条時宗より一字を賜り、宗宣と名乗る。 永仁5年(1297年)から六波羅探題南方に就任し、乾元元年(1302年)まで在京。. 北条氏の執権政治を前提として、権力が得宗家に集中した結果、得宗を中心に政治が運営されるようになった段階の政治形態。 得宗家の家人である御内人の勢力が強まり、御家人の要求は見捨てられがちになる。.

讃岐守(22歳) 1319年(元応元年). 高氏(尊氏)に嫁いでいた登子と嫡男千寿王は、人質として守時邸にあったと言われています。 高氏謀反の知らせが京都から鎌倉に届く寸前に、登子と千寿王は鎌倉を脱出して逃げ切ります。この逃走劇には守時の計らいがあったとされています。 当然、幕府内では守時が高氏や義貞らの倒幕軍と内応していると疑われ、それを払しょくするために前線におもむき戦死したと『太平記』は記しています。 鎌倉幕府が滅亡して半年も経たない1333年(元弘三年)11月22日。 後醍醐天皇は、ある人物に三浦半島の田地1万疋(約100石)を与える綸旨を出しました。 その人物とは、鎌倉幕府最後の執権赤橋流北条守時の後家(未亡人)です。 幕府滅亡後、朝敵とされた北条一族はことごとく所領を没収されましたが、後家とはいえ北条一族の名誉回復がなされたことはとても大きな意義があります。 もちろん、これは尊氏が後醍醐天皇に対して要求したからでしょう。 理由については、朝敵の義弟という立場を尊氏が嫌ったからとも言われていますが、登子や千寿王を鎌倉から逃がした義兄守時が朝敵のままであることを不憫と感じたからではないでしょうか。 この1年半後には、後醍醐天皇は得宗北条高時に「徳崇大権現」という神号をおくり、尊氏が北条一族の菩提を弔ううために宝戒寺を建立します。尊氏の北条一族に対する思いが垣間見えるエピソードです。. 北条時政 従五位下 遠江守 建仁3年(1203年)9月 - 元久2年(1205年)閏7月. 太字は得宗家当主 北条時政(源頼朝の舅。初代執権) 北条宗時(時政の長男) 北条政子(時政の長女、頼朝の妻) 北条義時(時政の次男。2代執権) 北条時房(時政の三男。大仏氏・佐介氏の祖) 北条政範(時政の四男) 北条時定(時政の甥か). 北条氏庶家は、得宗家と争いがたえなかった。そのため名越流からは、執権は出ていない。最後は北条氏庶家が得宗家に勝ち、得宗は形だけとなった。 鎌倉時代の末期、赤橋家、金沢家、大仏家などが権力の座にあった。 北条氏庶家従者. ですから、朝時の出家は、泰時が命じて行われた可能性があります。その理由は、泰時の後を継いで執権となる孫の経時がまだ19歳だったため、泰時死後、朝時が経時を追い落とす可能性があったからと考えたからでしょう(泰時の子で、経時の父時氏は早世していました)。 経時の行く末を心配した泰時が、朝時に出家させてもおかしくはありません。 朝時は、泰時が没してから3年後、1245年(寛元三年)に52歳で没しました。朝時の遺言にしたがって、子息たちは善光寺で供養をおこなっています。. 1年 11か月: 78 北条氏: 2 ほうじょう よしとき 北条義時 従四位下 右京権大夫: 元久2年(1205年)閏7月 - 貞応3年(1224年)6月13日. 得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏 惣領の家系。 徳崇、徳宗(読みは同じ)とも呼ばれる。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える.

・上野の箕輪城を中心とし、おもに長野氏と西上野にひろがる一揆衆(国衆、国人領主)について。 ・その他、管理者の趣味によるものもや関連性が見出せるもの。. 霜月騒動が起こった理由、時代背景を時系列でチェックしておきます。 ポイントになるのは1284年に北条時宗が亡くなったところです。 権力者の北条時宗が亡くなり、若い北条貞時が得宗を継いだことで、時宗によって絶妙に保たれていた幕府内の権力バランスが崩壊。幕府内で権力争いが起こりました。 この権力争いの主役は2人。安達泰盛と平頼綱という男たちです。というわけで、次に安達泰盛・平頼綱の両人物について簡単に紹介していきます。. の追討にあい、和田茂明が. jp その最初である、紺戸淳 氏の論文*1では、御家人の元服する史料がほとんど残っていないことから、生年の確定した御家人の10~15歳位までの年代が、当該時期の得宗と実名の一字が共通している御家人を洗い出すという考証的な作業によって、得宗家からの一字付与を受けた形跡のある御家人を11家抽出された*2が、その最初の例に挙げていたのが足利氏であった*3(次の系図参照)。 ▲【図A】足利・北条両家略系図*4 これにより先行研究では、"鎌倉時代の足利氏嫡流の歴代当主は基本「得宗からの偏諱+通字の氏」で名前を構成することを伝統とし、足利氏は代々得宗を烏帽子親とする家柄であった" と解釈されてきた。しかし、頼氏は改名によって得宗の偏諱を受けたのであり、また「家時」や高氏の兄「高義」は名前の構成が異なっており、厳密には少々誤った解釈である。 本項では、得宗家と足利氏との間に出来た継続的な烏帽子親子関係について、その成立の過程を丁寧に考察していきたいと思う。. 正五位下(21歳) 1316年(正和五年).

北条重時 生没年:父:執権 北条義時(得宗家へ) 陸奥三郎、陸奥修理亮、陸奥入道、奥州禅門、極楽寺殿など小侍所別当 1220 修理権亮 1223 従五位下 1223 駿河守 1225?-1246? 信濃守護六波羅探題北方若狭守護 1237 相模守. 流祖: 2世: 3世: 4世. 足利氏歴代当主は全て、北条氏出身の娘を正妻に迎えてきました。鎌倉幕府の始まりから終わりまで、足利氏と北条氏は共に歩んできたのです。ギクシャクすることもありましたが、ここまで北条氏と長く深い関係を結んだ一族は足利氏しかいません。 義兼・義氏・泰氏には北条得宗家の娘が嫁ぎ、頼氏・家時・貞氏・尊氏には北条得宗家ではなく北条庶子家の妻を迎えていることをもって、頼氏以降の足利氏は北条氏に軽んじられたという議論があります。 しかし、得宗北条氏は足利氏に対して、庶子家と言えども北条得宗家を支えた宿老の子孫で、執権・探題を輩出する家柄の娘を正室として嫁がせています。さらに、足利庶子家も北条氏一族と縁戚関係をもちました。北条氏は足利氏を軽んじるどころか、深い関係を築き続けようとしたのです。. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 平頼綱の用語解説 - 生? 1272年(文永九年)2月11日。名越時章と教時の邸宅が突然襲われました。時章は自害し、教時は子息とともに討たれてしまいます。 ところが、すぐに時章の討伐は誤って行われたことがわかりました。そして、逆に時章を襲撃した5人が斬首となります。教時の追手に対しては賞罰共になかったそうです。 同月15日。京都では北方と南方の二人が並ぶ六波羅探題のうち、北方の赤橋義宗が南方の北条時輔(時宗の庶兄)を襲撃してこれを討つという事件が起こります。 この二つの事件をあわせて「二月騒動」と呼びます。 時章を誤って襲撃したという理由で斬首された5人のうち、3人は時宗の被官で、1人は政村の被官でした。残る1人も時宗の被官であった可能性が高いとされています。 被官とは、従者・家来のことです。討手の主人が当時の執権・連署の時宗・政村だったのですから、時宗・政村が名越兄弟を襲撃させたと考えて間違いないでしょう。 それでは、なぜこの二人は「消された」のでしょうか? 名越教時は、宗尊親王が鎌倉を追放される時に、幕府近くまで軍勢を引き連れ示威行動にでた人物だったのです。 つまり、時宗・政村に対して敵対する勢力の急先鋒で、その結果、殺害されたと考えられています。 一方の名越時章は、鎌倉では執権・連署につぐ地位である一番引付頭人の立場にありました。そして、鎮西に多くの守護職をもつ有力な御家人でもあったのです。時宗・政村に敵対した教時と違って、むしろ協力していた側でしょう。 もし、時章に殺害される理由があるとしたならば、蒙古襲来を前に鎮西の体制強化を急ぐ時宗・政村から「邪魔者扱い」されたとしか考えられません。 蒙古襲来に備えて、時宗は幕府を「身内」で固めて団結を図っていきます。名越氏は得宗家にとって「身内」ではありません。 実際、時章への襲撃は誤りとされたにも関わらず、筑後・肥後・大隅の3か国の守護は名越氏の手を離れて大友頼泰・安達泰盛・千葉宗胤ら時宗派の御家人にそれぞれ与えられています。 時章に対する大義名分のない誅殺を正当化するために、誤りということにして時宗・政村の被官がトカゲのしっぽのように切られたと考えられます。 それでは、なぜ時宗は身内で固めて行ったのでしょうか? 北条 得 宗家 鎮西は、鎌倉から遥かに遠く耳目の届かない場所です。元々が東国の武士政権としてスタートした鎌倉幕府にとって、鎮西の統治について深. 1333年(元弘三年)5月8日、上野国新田荘(群馬県太田市)で挙兵した新田義貞は鎌倉街道上道を南下します。 『太平記』によれば、挙兵当初150騎に過ぎなかった新田勢は、幕府に不満をもつ各地の武士たちが合流したことで、20万騎に膨れ上がりました。この兵力は誇張と考えられますが、大軍勢となったのは確かです。ここまで大軍になったのは、新田勢の中に足利高氏嫡男千寿王(のちの義詮)がいたからでした。 鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の後ろに足利尊氏 新田軍は、5月11日には小手指原(埼玉県所沢市)、12日には久米川(東京都東村山市)、15・16日には分倍河原(東京都府中市)で迎撃する幕府軍を破り、17日には関戸(東京都多摩市)で陣を整え、村岡(神奈川県藤沢市)から鎌倉突入を図りました。挙兵から10日ほどで鎌倉付近まで迫る破竹の勢いでした。 これをくい止めるために、洲崎(神奈川県鎌倉市)で迎撃したのが赤橋守時でした。洲崎は化粧坂にも巨袋坂にもつながる要地であり、小高い地で村岡方面への見通しもよいため、この辺りに布陣したと考えられています。 5月18日に、激戦を展開しますが、ついに力尽きて山ノ内まで退き、侍大将南条高直ら90余人とともに自害して果てました。 【鎌倉幕府滅亡】新田義貞と北条一族の最期 「お飾り」とはいえ現役の執権が、前線におもむき戦死したのには理由がありました。. See full list on historyofjapan-henki. 北条 経時(ほうじょう つねとき)は、鎌倉時代前期の北条氏 得宗家の一門。 鎌倉幕府の4代執権(在職:仁治3年6月15日(1242年 7月14日) - 寛元4年3月23日(1246年 4月10日))。.

ところで、「家時」という名からすると、元服は頼氏の死後、家氏の生前に行われた可能性が高く*25、嫡男の宗家に対し、事実上の養子・家時が庶子として扱われたのではないかと推測される*26。彼らの命名や北条時宗への加冠も家氏の主導によるものと思われる。 しかし、文永5(1268)年に時宗が執権となって政治を主導する立場になる*27と、同じ頃に家氏が亡くなった*28こともあり、名越流の血を引く宗家よりも、母が得宗家出身という理由で家督を継いだ頼氏の遺児である家時を優遇することを考えたのではないかと思われる*29。 というのも、文永9(1271)年には名越流の北条時章・教時兄弟が誅殺された、いわゆる二月騒動が起きており*30、彼らが家氏の母方の叔父(宗家の大叔父)にあたることから、宗家が将来的に自身(得宗)を脅かし得る存在になる可能性が頭をよぎったのではないかと考えられるからである。 この史料中の「伊予守源家時」は、「瀧山寺縁起」温室番帳に「同(六月)廿五日 足利伊与守源ノ家時、弘安七年逝去、廿五才、」*31とある足利家時に比定される。前述の通り、家時が伊予守となったことは系図類にも記されるところで、上の【史料C】はそれを裏付けるものである。先行研究では、この家時の伊予守補任は、時宗による対蒙古政策としての源氏将軍復活に連動した “源義経の再現” を意図したものであったと解されている*32。 そして、もう1つ注目すべき所は、この除目において足利家氏の子・宗家と思しき「源宗家」*33が家時と同じ従五位下に叙されていることである。恐らくこの時に左近大夫将監となった*34ものとみられるが、家時は既に従五位下・式部丞となっており*35、この段階でやっと家時と宗家が従五位下で並んだことになる。家時には源氏にゆかりのある国守の地位を与え、宗家には家時に並ぶ位階とすることで、時宗は両者の対立を未然に防いだと考えられる。 historyofjapan-henki. この結果、評定衆や引付衆による合議制に基づく執権政治が解体され、得宗家当主以外の執権の権威は名目のみとなった。 時宗が卒去すると、14歳の息子 北条貞時 が得宗家当主となるが、若い貞時は時宗の様な指導力を行使できず、 寄合 が幕府の正式な. そうした中で後醍醐天皇による倒幕への動きが始まります。1321年(元亨元年)に親政を開始した後醍醐天皇は人材を登用して政治の改革につとめましたが、自らの皇位維持と自らの子孫への皇位継承のために倒幕を決意します。 その計画は、1324年(正中元年)に事前に幕府の知るところとなって、日野資朝・俊基が後醍醐天皇の代わりに全ての責任を負います。資朝は佐渡に流され、俊基は京都で謹慎となりました。これを「正中の変」といいます。 正中の変・後醍醐天皇、倒幕計画を立てるも隙だらけで失敗 しかし、後醍醐天皇の倒幕への執念はおさまることを知らず、1331年(元弘元年)に再度計画。しかし、これも幕府の知るところとなります。 幕府の追求を恐れた後醍醐天皇は、先んじて笠置山で挙兵しました。 北条 得 宗家 幕府は、大仏貞直・金沢貞冬・足利高氏らを大将軍とする大軍を派遣して落城させ、捕らえた後醍醐天皇を隠岐に配流しました。これを「元弘の変」といいます。 元弘の変・後醍醐天皇の倒幕と隠岐配流 北条 得 宗家 倒幕運動は鎮圧されたかに見えましたが、1332年(元弘二年)12月に護良親王と楠木正成らが挙兵し、1333年(元弘三年)1月には赤松則村(入道円心)が挙兵。2月には後醍醐天皇は配流先の隠岐を脱出し、伯耆国(鳥取県西部)船上山に名和長年とともに立てこもります。そして、5月になって足利高氏が反旗を翻したことにより六波羅探題が滅亡し、新田義貞が挙兵におよびます。 北条 得 宗家 【鎌倉幕府滅亡】足利尊氏、六波羅探題を攻め滅ぼす. これは得宗家と呼ばれる、鎌倉幕府を動かす北条家に対する反発からです。 得宗家の得宗とはもともと第2代執権・北条義時の法号で、義時の子孫の家を得宗家と呼びますが、諸説あるようです。.

武蔵守(25歳). See more results. また蒙古の使者が対馬に来るが、返答を得られなかった為に島民を拉致して. 名越氏の祖である北条朝時は、承久の乱で北陸道の大将軍になるなど幕府内では重要な役割を果たしていたと言えます。 義時が没したのち、泰時が執権の座に就きます。この時に起こった事件が「伊賀氏の変」です。 このときの朝時の動静は明らかになっていませんが、義時の法要に出席していることから事件に無関係だった可能性が高いです。 1236年(嘉禎二年)9月10日には、泰時が幕府に設置した評定衆にも就任します。しかし朝時は、一度だけ出仕した後に評定衆を辞退しており、「やってられるか!ボケっ!」という感じでしょう。この頃からすでに得宗家と名越氏の対立は表面化していたのでしょう。 実際のところは、朝時と当時の執権泰時との関係が破綻することはありませんでしたが、朝時と泰時の不仲は京都にも知れ渡るくらい有名な話だったようです。 1242年(仁治三年)、朝時は余命幾ばくもなくなった泰時の出家を受けて自らも出家を遂げます。このことについて、「吾妻鏡」には記載がなく、京都の公卿平経高が鎌倉からの話として日記に記しています。 その内容を要約すれば「朝時が出家したけど大丈夫か?鎌倉で何が起こったのかわからないけれども、京都~鎌倉間が封鎖され物々しい状態になったぞ」とのことです。朝時、謎の出家です。 朝時は、「泰時兄さんに従います」と普通に出家したのかもしれませんが、朝時の息子たちと得宗家の争いを見ていると、朝時が従順に出家したと思えません。都に聞こえるくらい仲が悪かったのですから. . 評定衆(17歳) 1312年(正和元年). . 得宗家女子.

1246年(寛元四年)3月23日。病気の経時に代わって時頼が執権となりました。その直後に「寛元の政変(宮騒動)」と呼ばれる事件が起こります。 南北朝時代に成立したとされる歴史書の『保暦間記』によれば、この時に名越光時(朝時の子)は、「自分は義時の孫だが、時頼は義時のひ孫に過ぎない」と口にしたといいます。光時が時頼の執権就任をこころよく思っていなかったことをうかがい知ることができるエピソードです。 さらに、光時は摂家将軍藤原(九条)頼経の近くに侍って、反執権サロンのようなものを作っていたそうです。当時将軍頼経に信頼されている自負もあったに違いありません。 時頼は事前に光時の動きを封じました。何がどうあったのかその詳細は不明なのですが、5月23日になって勝算のないことをさとった光時は、出家して髻(もとどり:髷のようなもの)を差し出して、時頼にわびをいれました。北条時頼・北条政村・金沢実時・安達義景による密談が行われ、事件の処置について話し合ったようです。 光時の弟の時幸も出家し、その6日後に自害を遂げています。名越時章、時長、時兼らは、事前に野心のないことを時頼に告げて陳謝したため処罰されることはありませんでした。 光時は伊豆国江間に流されて失脚しましたが、皮肉なことに光時の子孫は名越氏の嫡流から外れ、江間氏を名乗ったそうです。 結局、寛元の政変(宮騒動)の時に、まだ12歳と幼かった教時と時基の2人を除く、朝時の子息5人全員が時頼によって責任を追及されたことになります(3人は処罰されていませんが、政治生命は絶たれました)。 寛元の政変で時頼に陳謝して許された時章・時長・時兼のうち、時長と時兼はともに1252年(建長四年)に没します。事件から6年後のことでした。 そして、時章はのちに教時とともに、のちの「二月騒動」で討たれています。. See full list on chunengenryo. 必ずしも北条一族で一番エライ人(得宗家)が就くわけじゃない――という点でして。 途中から、執権職よりも得宗家のほうが権力を持っていたりします。 なので上記の 【歴代の執権】 表を見ても、途中から「誰ソレ?」状態になってません? 【ポイント】. 先手を打ったのは平頼綱の方でした。 平頼綱は、安達泰盛を消す大義名分を作るため、まだ10代だった北条貞時にこんな嘘を吹き込みます。 若い北条貞時はこれを信じました。平頼綱は貞時にとっては父のような存在ですし、北条氏の先祖は平氏です。それに平氏のライバルである源氏の名を出されるのは心情的にも良い気持ちではなかったのかもしれません。 こうして口実を得た平頼綱は、安達泰盛抹殺計画を練り上げ、1285年11月17日にその計画を実行に移します。(これが霜月騒動になります) 鎌倉の館にいた安達泰盛は周囲の異変を感じ、急ぐ北条貞時の館へと向かいます。 ・・・ところが、北条貞時の館の前には兵が待ち構えており、安達泰盛に襲いかかります。 北条 得 宗家 犠牲を出しながらも一命をとりとめた安達泰盛は反撃を開始。 争いは鎌倉一帯に拡大しますが、結局、安達泰盛は敗北してしまいます。最後は一族みなで自害した・・・とも言われています。 北条貞時も、まさか平頼綱がここまでやるとは思っていませんでした。 得宗の北条貞時が鎌倉を脱出するぐらいですから、鎌倉の戦火は相当なものだったのでしょう・・・。 しかも、戦いはこれだけでは終わりませんでした。安達泰盛が討たれたことで、日本各地で安達泰盛派VS平頼綱派の御家人同士の争いが始まってしまったからです。 特に関東一帯と九州で争いが多く起こりますが、平頼綱派が優勢であり、地方でも安達泰盛派は敗北してしまいました。 この一連の事件のことを11月(霜月)に起こったので霜月騒動と言います。 安達泰盛派があっけなく敗れてしまった背景には、平頼綱の用意周到な準備があったと言われています。平頼綱は、霜月騒動をきっかけに安達泰盛だけではなく、自分の邪魔をする勢力を全て一掃してしまおう・・・と考えたのだと思われます。. 後醍醐天皇の一連の倒幕運動「元弘の乱」は1331年4月頃から全国各地に広がり、1333年の5月に「東勝寺合戦」で当主の北条高時をはじめとする得宗家の面々が亡くなりました。 これをもって「北条氏」は滅亡し、それとともに鎌倉幕府も終焉を迎えたのです。.

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